ロックにおいて私的所有が金科玉条になっていた理由


http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin88.html#2
より引用


ロックの考える所有権(私的所有権)とは、どのようなものか。まずロックによれば、この世のあらゆる物は、神が人間の「共有物」として創った。人間には《自然法》において自己を保全する権利があり、自己の保全に必要なものを手にする。あるいは加工する。人間は自己が労働(採取や加工など)を加えた限りのものを自分の所有物とする。すなわち、人は自分自身の内に、所有権の根拠を持っている。その際に、他人の同意は必要ない。また、労働によって私的所有権が発生することそれ自体は、「共有物」を減らす行為ではない。耕作地は、荒地よりも多量の食糧を生産することが出来るし、人が労働を加えたものは自然のままのものよりも価値がある(労働価値説)。


 ただし、これはあくまでも《自然状態》における「共有物」を対象とした話である。だから、現代の公園のように、人々が共有地として定めた土地は、労働を加えても(例えばそこを耕して畑にしても)所有権を主張することは出来ない。また、あらゆる物を無条件に、そして無限に自己の所有物にできるわけでもない。なぜなら、所有の目的は「自己の保全」にあるのだから、原則的にはこの目的に沿う限り、つまり自己の保全に必要な分だけを、自己の所有物に出来るのである。


 そこからこういう話が出てくる。腐りやすい木の実(例えば桃を考えてみよう)を、自分が食べきれないほど大量に木からもぎ取って、自己の所有物にしたとしよう。その大部分は食べきれずに腐らせてしまう。そして、腐らせてしまった桃は、もし彼が自己の所有物にしなかったとすれば他者の保全の役に立ったはずだ。だからこういう行為は他者の権利の侵害になる。しかし、食べきれなかった桃を、1年は腐らないクルミと交換したならば、そのクルミを腐らせない限りにおいて(つまり、クルミが他者にも利用可能な形で保全されている限りにおいて)、彼は他人の権利を侵害したことにはならない。


 金銀やダイヤモンドなどは、腐ったり自然消滅しないし、食糧のようにそれ自体が直接に生命の維持のために有用なものでもない。だから、労働の成果(としての食べ物や衣類など)を貨幣や宝石などと交換し、それを蓄えても、他人の権利を侵したことにはならない。こうして貨幣による蓄財ということが行なわれるが、それは正当な所有である。


私的所有が正当化されるのは、それがマルクスのいう「使用価値」だから、と読める。
ロックにおいては貨幣は使用価値との単純な交換手段にすぎないようだし、所有されるものは結局のところ使用価値しかないということになりそう。
とすると、私的所有がロックにおいて金科玉条となるのは納得できる。
あの倫理的なロックが、私的所有を優先していたことに違和感があったのだが、これで腑に落ちた。