私の倉庫の目よ


この倉庫は、id:tikani_nemuru_M のメモ帳兼資料倉庫です。
本を読んだりしていて、ひっかかりのある記述に出くわしたら、キーワードをタグにして記述を放り込み、場合によってはメモなどをつけて置いておきます。


あくまで個人的な興味に基づくネタ資料庫ですが、コメ欄などは開放しておきますので関連する資料や記述がありましたらご教授くださるとすんごくウレシイです。もちろん、ここで見つけた資料は引用の要件を満たしてくださればどんどんお使いください。正確な引用を心がける所存です。
ただし、引用やメモに対して議論をふっかけられてもここでは原則的に対応するつもりはありません。


サブアカウント名とブログタイトルは、ディランの「Sad Eyed Lady Of The Lowlands」より拝借しました。

古井由吉の文章

本日あげる予定のエントリで、古井の文を引用したのだが、どうも使いにくい箇所がある。
せっかく写したのだから、メモ代わりにここにおいておく。
表現の自由と「流通の支配」をからめて考えるときには、これが使えるだろう。


しかしその自明のはずの生活の現実が、一般的な観念によって侵食されることの格段に急になったのが、この二十世紀の間だったのではないか。


観念の支配は、力の支配よりも、徹底している。力の干渉はまだしも、面従腹背によって、私的な生活のぎりぎり手前で、わずかに喰い止めることが可能だとしても、観念は個々人の内部にまで浸水しなくては止まない。さらに、観念の支配を解除されたと思われるその後から、それに取って代わって過激になるのが、流通の支配である。流通は自由をその原理とし、支配主体の定められぬ「無主」の、都合により民主の形を取るので、余計に自在に、障壁に妨げられず、まさしく融通無碍に、人の生活を貫いて流れる。もっぱら人の欲求に仕えるものと触れ込みながら、やがて主従の転倒が起こり、人の生活をその端末として支配するようになる。供給による需要の支配という逆転である。


流通も科学技術の内であり、いまやそのもっとも先端にあるものだとさえ言える。この流通をふくめた科学技術が、そのはてしもない自己展開によって、不死を欺く。その展開の無限性において、可死の人間にとってはほとんど不死である。しかも学としての科学なら、個々の理論家と同様に、抽象の過程を提示するのにひきかえ、人の生活に接近するものはその成果であり結果であり、その過程をことわりはしない。過程そのものがあまりに高度な抽象の連鎖であり、現実感覚に反するような展開もその間にはあり、末端からこれを逆にたどって説明するのはむずかしいという事情もあるだろう。応用の過程も劣らず長くて煩雑なはずだ。末端の使用者に示されるのはわずかに、「論より証拠」の効用である。効用とはあくまでも局所的なもの、「局時」的なものである。しかも新しい効用が次から次へ、これも限りなく提供される。


民衆はもとよりすぐれた「抽象家」であり、どんなに高度なあやうい抽象を経た事実でも、それが世に流通すれば、過程を問わずに結果を受け容れる。近代の展開の過激さをどこかで非現実に感じて、全面の賛同を留保する一方で、先端こそ現実と仰ぎもする。また、そのつどの効用には「反論」しがたい。こうして、無限追求のその時々の結果である事物に、生活は包囲されて行く。包囲陣は十年ほどずつ区切って眺めれば際立って、生活の内部へ喰い込んでいる。これらの事物もいずれ超えられ捨てられる、すべては泡沫のごとくに過ぎ去る、とひそかに感じるのが民衆のその「抽象家」の仮面の下にほそめた真面目なのだろうが、しかし個々の事物は過ぎ去っても、追求の無限の「不死」の相貌は事物から事物へと継がれる。人は事物の扱いに慣れると、それを改めて眺めることもまれになるが、事物のほうはつねに人を見つめて、事物に似るよう無言のうちに要求している。


その「不死」が、可死の人間から死への感覚すら奪って行きはしなかったか。


始まりの言葉 P42〜44

「公共性の構造転換」まとめ


ハーバーマスの「公共性の構造転換」を読んだときのまとめを倉庫においておく。
なお、この話題に関しては、
http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/hanada/hanadap1/hanadap1.htm
も必須の資料。

  • 近代という時代は、公権力の領域と私人の領域の空間的な分割・分離とともに発生する。
  • その前史をたどると、それら二つの領域は十六世紀に始まる封建的な諸権力の解体過程から生まれてきたものだといえる。君主や貴族は、その支配力を演出する舞台として「代表的具現の公共性」を設けていた。具体的には様々な衣装や道具を伴った儀式や祭典である。

この舞台装置によって、支配ー被支配関係が可視的に顕現され、支配者としての_体面_が維持された。ここには近代的な意味における公も私もない。

  • まず、教会権力に対する宗教改革は内面の自由(=信教の自由)という最初の私的自治の圏を生み出した。これに伴い、君主権力においては私的家政と公的予算の分離が発生し、公的部分から官僚制と軍隊が、封建的身分からは身分制議会と裁判所が発達する。つまり、絶対主義国家としての機構が整う。
  • この過程にともない、「代表的具現の公共性」は衰退し、国家に代表される公権力の領域が形成される。そして、それに呼応し、また対立する形で私人の領域が形成される。
  • この私人の領域をにない、分節化させていったのは新興ブルジョアである。信教の自由(内面の自由)として私的自律の最初の手がかりを得た彼らは、口語訳の聖書を手にし、カトリック教会という神を独占するメディア回路からの自由をえる。そこに家父長を中心とした小家族の内部に「親密圏」が形成されることとなる。
  • このブルジョア小家族の内部に発生した「親密圏」こそが、自由・愛・教養といった近代的価値理念を醸造する母体となる。

ブルジョアの持つ資源は、私有財産啓蒙主義的教養ということになるが、この二つの契機が転回していくことにより小家族の内部に発生した空間が拡大し、それぞれに別の圏を生み出していくこととなる。

  • まず、私有財産においては、商品取引が家族経済の圏域を突破して、商品交換と社会的労働の分野を成立させる。これがハーバーマスの用語における「ブルジョア社会」であり、後にはこれが市場経済へと抽象化されていく。
  • それと並行して(あるいは先行して)、啓蒙主義的教養を媒介として「文芸的公共圏」が形成される。これは、ブルジョア的教養のコミュニケーション空間、文化の集散地となり始めた都市空間、「代表的具現の公共性」の名残としての宮廷社交界の一部が合流して発生した。具体的にはコーヒーハウスやサロンなどである。

そこでは、_教養_という入場券を持つかぎりにおいて、その他の要件では対等な私人間での座談なり芸術批評が行われていた。


◆他方、物理的な場所を共有しない形態の媒介制度として新聞が定着する。新聞とは、商品取引のための情報媒体として出発し、命令伝達のための官報として利用されつつも、ついには離れ離れの私人を公衆として糾合するメディアとして制度化する
ここに、文芸作品や新聞を読む「読書する公衆」が出現する。


◆この文芸的公共圏から、政治的公共圏が派生する。
経済的な圏域としてのブルジョア社会と、文化的な圏域としての文芸的公共圏の担い手は、いずれも新興ブルジョアジーである。ブルジョア社会の拡大にともない、絶対主義国家の重商主義的な統制は足かせとなり、そこからの政治的解放を望むようになる。
ブルジョアジーはこれを公開された論争という手段によって行ったわけである。


◆ここに、ブルジョア社会が自己の利害関心を論争的に表現する圏域としての政治的公共圏が分離形成される。この圏域は政治的公衆や世論、政党を自らの媒介物としてもち、ブルジョア革命によって私人の領域を突破して公権力の領域に歩を進めた。つまり、近代の議会を制度化した。


◆そして、その議会を通して、本来ならば私人の領域の原理である「国家からの自由」権や私的契約関係などの規範を法体系化し、そこに保証を与えていった。こうして、19世紀にはブルジョア自由主義法治国家が成立する。


以上、内面的自由⇒親密圏の形成⇒文芸的公共圏⇒政治的公共圏 と公共圏は拡大してきたことを足早にスケッチした。
さて、このように見てくるとブルジョア政治公共圏はブルジョア社会のためのイデオロギー装置にすぎないということになるかもしれないが、ハーバーマスは一面ではその通りであることを認めつつ、それと同時に単なるイデオロギー以上のものであったと見なしている。
これは、自由主義法治国家においては、支配というものが暴力に依拠するものではなく、自由な討議による合意を目指す過程によってその正当性を与えられるという仕組みへの、そしてその仕組みが万人に開かれたものとして制度化されうることへの評価であるといえよう。


ここで、政治的公共圏の理念とは、言説の公開性と他者との共同性を組織原理とした、自由なコミュニケーション空間の設営であると定式化できよう。その前提条件は、国家と社会との分離にある。


また、公共圏とはもともと拡大された私的自治であるであるということは、ことに日本においてはいくら強調してもしすぎることはなさそうだ。
「公共」というのは国家や公権力のことを意味するわけではない。公共の論理とは私的自治の論理なのである。


さて、このように成立した公共圏だが、これが機能的に構造を転換してしまうという事態が起こる。これがハーバーマスのいう「公共性の構造転換」である。

  • 19世紀の終わり以降、ブルジョア社会の圏域がその内部での利害紛争を自力で解決できなくなり、国家にその調停を要請した。つまり、国家と社会との分離という公共圏の存在の前提条件を放棄した。

ここに、国家と社会との分離から相互浸透へと構造が変化した。この構造的変動により、政治的公共圏の基盤は掘り崩され、その政治性を失っていく。

  • 公共圏は公衆による批判的な言説空間から、体制化した諸組織による大衆へのPRあるいは広告宣伝の空間へと転化する。この事態をハーバーマスは「公共圏の再封建化」と呼んだ。こうした公共圏のありかたは、封建時代の「代表制具現の公共性」と酷似しているからである。

もともと公共圏とは、公権力に対抗するために私的な領域の拡大していったものだというのがハーバーマスの基本的な認識であろう。しつこくいうが、ここは重要。
我が国のことを考えてみると、日本においてはそもそも「代表的具現の公共性」しか存在していないのではないかと考えることができるかもしれない。
例えば、カルデロン一家へ対する在特会のデモなどは、「代表的具現の公共性」そのものといえるかもしれない。ヘイトスピーチなどもこの文脈で捉えなおすことができよう。

ロックにおいて私的所有が金科玉条になっていた理由


http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin88.html#2
より引用


ロックの考える所有権(私的所有権)とは、どのようなものか。まずロックによれば、この世のあらゆる物は、神が人間の「共有物」として創った。人間には《自然法》において自己を保全する権利があり、自己の保全に必要なものを手にする。あるいは加工する。人間は自己が労働(採取や加工など)を加えた限りのものを自分の所有物とする。すなわち、人は自分自身の内に、所有権の根拠を持っている。その際に、他人の同意は必要ない。また、労働によって私的所有権が発生することそれ自体は、「共有物」を減らす行為ではない。耕作地は、荒地よりも多量の食糧を生産することが出来るし、人が労働を加えたものは自然のままのものよりも価値がある(労働価値説)。


 ただし、これはあくまでも《自然状態》における「共有物」を対象とした話である。だから、現代の公園のように、人々が共有地として定めた土地は、労働を加えても(例えばそこを耕して畑にしても)所有権を主張することは出来ない。また、あらゆる物を無条件に、そして無限に自己の所有物にできるわけでもない。なぜなら、所有の目的は「自己の保全」にあるのだから、原則的にはこの目的に沿う限り、つまり自己の保全に必要な分だけを、自己の所有物に出来るのである。


 そこからこういう話が出てくる。腐りやすい木の実(例えば桃を考えてみよう)を、自分が食べきれないほど大量に木からもぎ取って、自己の所有物にしたとしよう。その大部分は食べきれずに腐らせてしまう。そして、腐らせてしまった桃は、もし彼が自己の所有物にしなかったとすれば他者の保全の役に立ったはずだ。だからこういう行為は他者の権利の侵害になる。しかし、食べきれなかった桃を、1年は腐らないクルミと交換したならば、そのクルミを腐らせない限りにおいて(つまり、クルミが他者にも利用可能な形で保全されている限りにおいて)、彼は他人の権利を侵害したことにはならない。


 金銀やダイヤモンドなどは、腐ったり自然消滅しないし、食糧のようにそれ自体が直接に生命の維持のために有用なものでもない。だから、労働の成果(としての食べ物や衣類など)を貨幣や宝石などと交換し、それを蓄えても、他人の権利を侵したことにはならない。こうして貨幣による蓄財ということが行なわれるが、それは正当な所有である。


私的所有が正当化されるのは、それがマルクスのいう「使用価値」だから、と読める。
ロックにおいては貨幣は使用価値との単純な交換手段にすぎないようだし、所有されるものは結局のところ使用価値しかないということになりそう。
とすると、私的所有がロックにおいて金科玉条となるのは納得できる。
あの倫理的なロックが、私的所有を優先していたことに違和感があったのだが、これで腑に落ちた。

「未開社会」の不妊対処法


レヴィ=ストロース講義」平凡社ライブラリ 第二講より


人間社会が成りたつためになくてはならない条件は、自己再生産すること、つまり社会が新しいメンバーを補充して、自己を永続的に維持していくことです。そのためには、すべての社会が、新しいメンバーの帰属を決定する出自の規則、血族および姻族という親族の分類の仕方を決定する親族関係の体系、最後に、結婚が可能か不可能かを定める婚姻の規則、をもたなければなりません。またどのような社会も、不妊という事態に対処する方法を用意しなければなりません。
P80より引用


以下、要約

  • 今日の西欧では、親子関係を社会的なものとみるよりも生物学的なものとみるほうが優勢のよう
  • 英国ワーノック委員会では、遺伝子上の母、生理学的意味での母、社会的母の3つを区別し、そのうち生理学的母が子供ともっとも親密な絆をつくるという理由で子宮貸与の禁止を勧告している
  • 「未開社会」では現代の生殖医療はもちろんないのだが、法的・心理的見地からはほぼ現代の生殖医療に相当する方法を案出し、実行している
  1. 娘達は非常に若いうちに結婚するが、夫のもとで生活を始める前に、最高3年間は自分で選び公にも認められた愛人を持つことができる。愛人との間に生まれた最初の子供をつれて夫のもとに嫁ぎ、この子供は正式な婚姻による最初の子と認められる。一方、男性は複数の妻を持つことができ、夫は妻と離別したあとでも、元の妻の産む子の父と認められる。(アフリカ、ブルキナファソのサモ族)
  2. 金持ちの女性は妻をめとって、男性と家庭をもたせる。生まれた子供は法的な夫であるこの女性の子供とされ、現実の両親が子供を手もとにおくためには、この女性に高額の支払いをしなければならない。(ナイジェリアのヨルバ族)
  3. 不妊の女性は男と見なされ、彼女は姪の婚姻に際して「父方の叔父」として花嫁代償の牛の一部を受け取り、これを自分自身の妻を獲得するために用いる。男に代償を払ってこの妻を受胎させ子供をつくる。(スーダンのヌエル族)
  4. 男性が独身のまま、あるいは子供を残さずに他界した場合、近親者がその男性の所有していた牛の群れの一部を用いて妻をめとり、死んだ男性の名において子供を作ることを可能にしている。これは「幽霊婚」と呼ばれる。(これもスーダンのヌエル族)
  5. ほか、いくつか例示されている


以下引用
以上にあげたすべての例で、子供の家族的、社会的身分は、法的父(たとえそれが女性であっても)との関係で決まるわけですが、それでも子供は生物学的親が誰であるかを知っており、感情的絆も保っています。私たちの危惧に反して、子供たちにとって生物学的親と社会的父が異なっていることや、両者の身元がわかっていることからくる葛藤はありません。


死亡した夫、あるいは世代を隔てた先祖(これも理論上は可能です)の精子を冷凍保存し、これによって受精するという技術の出現が私たちにもたらす脅威に類するのも、これらの社会では存在しません。これらの社会の多くで、子供は先祖の再生と見なされているからです。


中略


こうした習慣は、現代技術によって将来ひきおこされるであろう事態の、隠喩となっています。このように、人類学者の研究する社会では、私達を困惑させている生物学的受胎と社会的父性の矛盾は、存在しないことが確かめられたわけです。これらの社会は、ためらうことなく社会的関係に優先権を与え、集団のイデオロギーにおいても、個人の精神においても、二つの問題は衝突しないのです。
P91〜92


日本のイエ制度も生物学的な血統主義ではない。もちろんイエ制度は抑圧的な制度としてありえたことを我々は知っており、ストロースが紹介した種々の制度が抑圧的ではないということもいえない。
ただし、生物学的・遺伝学的な親子関係よりも社会的親子関係を「ためらうことなく」優先することと、こどもに葛藤がないことは密接な関係があることは確かではないかと考えられる。

再帰性と自然


再帰性とは、選択前提(であるがゆえに通常は選択対象にならないもの)が選択対象に繰り込まれた状態。近代社会では「手つかずの自然」は再帰的である。文化を前提づける自然というより、あえて手をつけない文化的選択の結果を意味するからだ。


双風舎バックラッシュ」P83


ジェンダーフリーは「社会的性別にかかわる再帰性の自覚」であるという宮台の言説の用語解説として。


再帰性というのは、意識とか言語の自己言及性の社会学バージョンか?
表計算ソフトには循環参照エラーというものもある。
差別というのは循環参照だよな、と思ったり。循環して参照しちゃっているという自覚は必須か。


自然・性・文化はセットになって絡んでくるなあ。

未開人はなぜ開発を拒むのか


これらの社会の示す開発への抵抗は、それぞれの社会が自然と文化のあいだに、独自な関係をつくりだしているということからも説明されます。開発とは、自然に対して文化を優先させることであり、このように文化を優先させるのは、工業文明だけだからです。


自然と文化という二つの領域の区別はたしかにどのような社会においても認められます。またどのように素朴な社会であっても、動物的状態から人間的生活を区別する、食べものの調理、土器づくり、機織りなどの文明の技術を、高く評価しています。


それでもなお、いわゆる未開人における自然の観念には、つかみどころのない面がつきまといます。自然は、「文化に先立つもの」であると同時に「文化の下にあるもの」であり、人間が先祖や霊、神に出会う領域でもあるのです。つまり彼らの自然の観念には、「超自然」の要素が含まれているのです。文化は自然の上に立ちますが、超自然はその文化の上に立っているのです。


平凡社ライブラリーレヴィ=ストロース講義」 P105〜106

  • 別の箇所で「事物の本質、すなわち超自然」という記述も見られる
  • 初期教会やイスラム神学における利子の禁止を、原初の無垢な状態を保つべきであるという考えから説明
  • 「自然 対 文化」 の対比と、「女性 対 男性」の対比は多くの社会で同じものとみなされている。