古井由吉の文章

本日あげる予定のエントリで、古井の文を引用したのだが、どうも使いにくい箇所がある。
せっかく写したのだから、メモ代わりにここにおいておく。
表現の自由と「流通の支配」をからめて考えるときには、これが使えるだろう。


しかしその自明のはずの生活の現実が、一般的な観念によって侵食されることの格段に急になったのが、この二十世紀の間だったのではないか。


観念の支配は、力の支配よりも、徹底している。力の干渉はまだしも、面従腹背によって、私的な生活のぎりぎり手前で、わずかに喰い止めることが可能だとしても、観念は個々人の内部にまで浸水しなくては止まない。さらに、観念の支配を解除されたと思われるその後から、それに取って代わって過激になるのが、流通の支配である。流通は自由をその原理とし、支配主体の定められぬ「無主」の、都合により民主の形を取るので、余計に自在に、障壁に妨げられず、まさしく融通無碍に、人の生活を貫いて流れる。もっぱら人の欲求に仕えるものと触れ込みながら、やがて主従の転倒が起こり、人の生活をその端末として支配するようになる。供給による需要の支配という逆転である。


流通も科学技術の内であり、いまやそのもっとも先端にあるものだとさえ言える。この流通をふくめた科学技術が、そのはてしもない自己展開によって、不死を欺く。その展開の無限性において、可死の人間にとってはほとんど不死である。しかも学としての科学なら、個々の理論家と同様に、抽象の過程を提示するのにひきかえ、人の生活に接近するものはその成果であり結果であり、その過程をことわりはしない。過程そのものがあまりに高度な抽象の連鎖であり、現実感覚に反するような展開もその間にはあり、末端からこれを逆にたどって説明するのはむずかしいという事情もあるだろう。応用の過程も劣らず長くて煩雑なはずだ。末端の使用者に示されるのはわずかに、「論より証拠」の効用である。効用とはあくまでも局所的なもの、「局時」的なものである。しかも新しい効用が次から次へ、これも限りなく提供される。


民衆はもとよりすぐれた「抽象家」であり、どんなに高度なあやうい抽象を経た事実でも、それが世に流通すれば、過程を問わずに結果を受け容れる。近代の展開の過激さをどこかで非現実に感じて、全面の賛同を留保する一方で、先端こそ現実と仰ぎもする。また、そのつどの効用には「反論」しがたい。こうして、無限追求のその時々の結果である事物に、生活は包囲されて行く。包囲陣は十年ほどずつ区切って眺めれば際立って、生活の内部へ喰い込んでいる。これらの事物もいずれ超えられ捨てられる、すべては泡沫のごとくに過ぎ去る、とひそかに感じるのが民衆のその「抽象家」の仮面の下にほそめた真面目なのだろうが、しかし個々の事物は過ぎ去っても、追求の無限の「不死」の相貌は事物から事物へと継がれる。人は事物の扱いに慣れると、それを改めて眺めることもまれになるが、事物のほうはつねに人を見つめて、事物に似るよう無言のうちに要求している。


その「不死」が、可死の人間から死への感覚すら奪って行きはしなかったか。


始まりの言葉 P42〜44